そして、彼の帰還


ミシィが部屋に来なくなった。

元々そんなにべったりと四六時中一緒にいたわけではない。合い鍵を渡してからはまめに顔を出してはいたが。
しかし、この間部屋を出て行ってから、ぱったりと顔を見せなくなった。
しばらくは気が楽になった気もしていたが、一週間まったく顔を見なくなるとさすがに心配にもなってくる。
気ままな妹分の事だ、どうせ大した事は考えずどこかで遊びほうけているのだろうとは思ったが、いつもの酒場にも顔を出していないというのはいささか不審だった。
リンクシェルはつけているようなので直接問いただしてもいいのだが、事を大きくするようでそれもはばかられる。
しばらく前までは顔を合わす事を避けたいと思っていたのに、実際顔を合わさなくなると心配になる。人の心というのは不安定なものだ。
「どうしたものかな……」
ミシィに会ったとして、どうすればいいのか。それを決めていないとどうしようもない。だが、まだ考えが定まらない。心の内を告げずにこのままの関係を保つか、それとも――
「情けないな、俺は」
本音を言ってしまえば、ただ怖いのだ。このままでいるのも、今までの関係が壊れるのも、新しい関係を築くのも。
苦笑いして、トーリは誰も訪れる事のなくなったレンタルハウスを見回した。相変わらず書物とスクロールが散乱している。我が物顔でベッドに腰掛けたり、座卓の前に陣取っていた妹分はいない。
まだ日は高いが、白門の酒場街に向かおう。酒に逃げる自分をさらに情けなく思ったが、どうしようもないとごまかすように足早に部屋を出た。

ショートカットを使ってアルザビから白門のレンタルハウス区域を経由し、白門の街中に出る。バルラーン大通りには行かず、港の方に足を進めた。港の前の広場を通り抜けながら、ここに時々釣りに訪れては、釣った魚をミシィに調理してもらっていた事を不意に思い出してしまって、トーリは思わず眉根を寄せた。今はあまり妹分の事を考えたくはない。
「あ」
「ん?」
そういう時に限って、当の本人とばったり会ってしまうのが世の常である。
喧噪の合間を縫って、間抜けな声がしたのをトーリは確かに聞いた。
数歩先に、件の妹分がぽかんとした顔をして立っていた。思いがけない再会に、トーリの方も一瞬呆けてしまう。
次の瞬間、慌てたように身をひるがえそうとしたミシィとの距離を一気に詰めて、彼は無意識にその腕を掴んでいた。元モンクの俊敏さが、まだ彼に残っていたらしい。
「……」
腕を掴まれたミシィが体をこちらに向ける。掴み止めたはいいものの何も言葉が出てこない彼の視線に少し目を合わせ、それを避けるように少女は顔をうつむけた。
「……手、離してよ、痛い」
「これくらいの力で痛いわけないだろ」
ミシィはモンクだ。振り払おうと思えば振り払える強さで、トーリは彼女をつなぎ止めている。
「……久しぶりだな」
「……そうかな」
ようやくひねりだした言葉に、妹分は素っ気ない。
「元気にしてたか」
「一週間くらい会ってないだけじゃん。も、いいでしょ、離して」
「なんだ、怒ってるのか?」
かもし出される雰囲気に疑問を投げかければ、ミシィはきっと顔を上げた。
「怒ってない!」
怒ってるじゃないか。と言うともっと怒りそうなのでとりあえずトーリは黙った。
「なによ、兄さんなんか、兄さんなんか……」
ミシィの顔がくしゃりと歪む。いかん、この兆候は危ない気がする、焦ったトーリだがどうしようもない。
少女の緑の目からぽろっと涙がこぼれた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、それは次々と流れ出てくる。
「兄さんのバカ〜……なによう〜……」
「お、おい」
その場で再びうつむいて泣き出した妹分を前に、トーリはただ慌てるのみだ。
なんだ、なんで泣くんだ!
理由がさっぱりわからない。混乱するトーリ、泣き続けるミシィ。
辺りが二人を見咎めてざわつき始める。
そのときだった。
「ミシィ!?」
少女を呼ぶ声がして、一人の青年が二人の元に駆け寄ってきた。ミシィが顔を上げて、ぼんやりと青年の名前を呼ぶ。
「あ、ケルちゃん……?」
「ケルちゃん? え?」
思わず間抜けな声を出してしまった。
駆け寄ってきた青年は、年の頃ならトーリと同じくらいか。整った顔、肩より少しばかり長い茶色の髪、怒りに燃える同じ色の瞳。バストゥーク生まれかつ高ランクなのか共和国制式礼服に身を包んだ彼は、二人の間に割り込んだ。ミシィをかばうように立つ。
「ちょっとアンタ! なに女の子泣かしてんのよ!」
喧嘩を売るようにいきなり噛みつかれて、トーリも少しばかりかちんときた。声音が硬くなる。
「……あんたには関係ないだろう」
「あるわよ! この子はアタシの大事な子なんだから!」
大事な子ってなんだ、なんなんだその表現は。そしてなんで女言葉なんだ。つっこみが追いつかない。
「け、ケルちゃ、いつ戻って」
「ミシィは黙ってて!」
「え、あ、う」
呆けたように問いかけるミシィ。それを切って捨てる「ケルちゃん」。混乱度合いがますます高まってきた所で、トーリははっと辺りを見回した。
彼らの周囲だけぽっかりと人混みがなくなっている。いぶかしげにささやきあう人々、このままでは衛兵までやってきそうだ。
「……わかった。いったん落ち着くぞ。それで場所を移そう、ここでいつまでも騒ぐ気か?」
トーリの言葉に毒気を抜かれたのか、青年がきょとんとした顔をする。
「あら、そ、そうね」
さっきまでの場の緊張はどこへやら、どこか間抜けな感じで人混みをかきわけそそくさと三人は歩きだした。
「で、どこ行くのよ?」
「なじみの酒場がある、ミシィもそこでいいだろう?」
「あ、うん」
まだ涙の残る顔で、ミシィがうなずく。その顔にほんの少しばかり罪悪感。
イオに守ってあげてねと言われていたのに、意味がわからないながらも泣かせてしまった。ふがいない。
彼の後をついて歩きながら、青年が問いかけてくる。
「アンタ、名前は? アタシはケルヴィン・ハルトマンよ」
「トーリ・ココノエだ」
「あら、じゃあアンタ、ミシィのお兄さんじゃないの!」
「……まあ、そうだな」
ミシィから彼の話を聞いていたのだろうか。ケルヴィンの声音から剣呑さがさっぱりと消えた。気が抜けたように続ける。
「なんだ、そうならそう言ってよ〜。アタシはてっきりミシィが変なのに絡まれてるとばっかり……」
変なのってなんだ。
「……着いたぞ、話は中で聞く」
返事を待たずに、トーリはにぎやかな声が漏れ聞こえてくる酒場のドアを開けた。

酒場はいつものように混んでいた。テーブルについて三者三様、それぞれ酒を注文する。
「ふぅー、ようやく一息つけたわ」
心なしかミシィに近い方に座ったケルヴィンが笑う。むすりとしているトーリをよそに、ミシィが問いかけた。
「ケルちゃん、いつ帰ってきたの? おうち継ぐって話どうなったの?」
「まあまあミシィ、落ち着いて。まずはそうねぇ」
矢継ぎ早に繰り出された問いをいなして、ケルヴィンはトーリに向き直った。
「勘違いして悪かったわ、許してちょうだいね?」
ウインクひとつ。その仕草があまりにも自然で堂に入っている。トーリは不機嫌そうに、
「……あまり謝ってるような態度じゃないが、まあいいとしよう」
「もう、兄さんはすぐそういう事言うー!」
ミシィがすぐさまその言葉を咎めるので、ますます仏頂面に磨きがかかるトーリだった。
「ごめんねケルちゃん、むすっとした兄さんで」
だからなんでそこでそいつに謝るんだ!
ころころとケルヴィンが笑う。
「いいのよぉ〜。思った通りのイケメンじゃないの、仏頂面もイケてるわよ」
「え、そ、そうかな……」
そして何故そこで戸惑う。
「それで、家督継ぐって帰ったあんたがなんでまた白門に?」
「あら、ミシィに聞いてたの?」
「……まあな」
ケルヴィンがふっと微笑んだ。
「アンタたち仲良いのねぇ〜。兄妹っていうのはやっぱりそうでなくっちゃ。その点うちはほんとだめだめだったわぁ」
「……兄弟と喧嘩でもしたの?」
ミシィの言葉に堰を切るようにケルヴィンが話し出した。
「聞いてよミシィ。アタシ十五の時にいずれは実家を継ぐって約束して冒険者になったんだけどさ、その間に弟連中が跡目を継ぐ画策してたみたいで。弟連中の誰につくかで家の中しっちゃかめっちゃかになってたのよ。
そんなところで父さんが倒れちゃって、ますますお家騒動が混迷を極めてたわけ」
そんなところに帰ってきた長子。ケルヴィンが遠い目をする。
「歓迎されるとまでは思ってなかったけど、命狙われるとも思ってはなかったわね〜……」
「えっ」
「もちろん撃退したわよ? それでそのまま弟連中呼び出して、啖呵きって出て来ちゃったわけ。アンタたちは一生血みどろの喧嘩してなさい! アタシはつきあいきれないから相続放棄させてもらうわ!って。
……あんな子たちじゃなかったのにねぇ〜……、アタシが一時的に家出ちゃったのが悪かったのかしら……」
そう締めくくって、ケルヴィンは長い長いため息をついた。
「ケルちゃん……」
「で、白門についたのがついさっきだったってわけ。そうしたらミシィが変なのに捕まってるみたいだったからぁ、かっとなって割って入っちゃったのよねー」
「変なので悪かったな」
「んもぉ、悪かったってば!」
反省しているのかしていないのか、明るい声で詫びるケルヴィン。トーリはやってきた酒をちびりとやって、半眼になった。
結局女言葉を使う理由は全然わからないが、まあそういう奴なのだろう。
「で、二人はあんな所で何してたの?」
言葉に詰まる。ミシィも同じようで視線をさまよわせている。ケルヴィンがいたずらっぽく笑う。
「よくある兄妹喧嘩かしら?」
「……まあ、そうだな」
「そ、そう! そんな感じ!」
「ふぅん?」
含みがある笑みを浮かべて、彼もまた酒に口をつけた。見透かされてもいるようで、なんとなく落ち着かないトーリだった。

それからしばらく三人で飲んで――主にミシィとケルヴィンが話していたが――、そろそろお開きとなった。店から出る。
結局ミシィとはあまり言葉を交わさなかったが、元気そうなので少し安心した、何故泣き出したのかはわからなかったが。
店の中の熱気もあってか、外気に触れると少し寒い。
「トーリくん、フレ登録しない?」
「……ああ」
気軽に申請してきたケルヴィンに、別に断る必要もないので応える。
「ありがと! ついでにアタシの事はケルちゃんって呼んでもいいのよー」
「それはごめんこうむる」
「兄さんってば!」
ミシィが呆れたような声を出すが、そこまでなれ合う気もないのだった。ケルヴィンはただ笑っただけだ。
「ケルちゃん、この後どうする?」
「もう一軒くらいいっとく?」
「いくいくー!」
「トーリくんは?」
帰るんじゃないのかよ。
酔っているのが傍目からでもわかる妹分を任せてもいいものだろうか。一瞬迷って、トーリもうなずいた。やはり目の届く範囲においておくのが一番安心だ。
「つきあおう」
「ふふ、ナイト様ねぇ?」
「違うようー、兄さんは黒魔だよー」
「はいはい、そうねー。あ、トーリくん」
ミシィを軽くいなして、ケルヴィンがトーリに身を寄せる。
「アタシこんなだけど、男も女もイケるクチだから」
耳元でささやいて、
「なに?」
「イケメンで可愛い兄妹とお近づきになれて嬉しいわ〜。仲良くしましょうね? 二人とも」
彼は月明かりの下、にっこりと美しく笑った。
その笑みがやけに挑戦的に映って、トーリはうろたえる自分を悟らせないようにするので精一杯だった。


"his return" is over!
inserted by FC2 system