目覚めたときに


一人寝をするときに限って、夢を見る。
だから最近、一人で眠るのが怖い。

夜も更けたアトルガン皇国、アルザビ人民街区。おいそれと引っ越しできないくらいに物で溢れかえったとあるレンタルハウス。
そなえつけられたアトルガン様式のベッドの上で、彼は身じろぎをした。柔らかい感触が隣にあることに気づいて、ため息をついて起きあがる。
「んー……」
いつものように、いつの間にか隣に潜り込んで眠っていた妹分、ミシィ・ハーウェイが一瞬むずがるように声を上げた。トーリ・ココノエは黙って少女に目をやる。
赤茶けた髪、顔にほどこされた紋様。上半身はさらしに包まれていて、常から着用している作務衣はベッドの端に引っかかっている。すうすうと気持ちよさそうに眠る幼い顔立ち。細くて長いまつげ。柔らかそうな唇。
頬に触れようと手を伸ばして、逡巡して、その手は結局ひっこめられた。
触れて、温かさを感じて、柔らかいその感触に酔って、そしてその先には。
俺はどうしたいんだ?
「……くそ」
多分自分自身に毒づいて、トーリは妹を起こさないようにベッドから出た。

簡単に身支度を整えて夜の街に繰り出す。足を伸ばして辺民街区まで来てみれば、夜も更けているというのにいつもの酒場のある一角は賑やかだった。
酒場の片隅で酒を注文し、喧噪に紛れてしまうとなんとなくほっとする。何も考えなくてすむからだとは気づかないふりをした。
そのままちびちびと注文した蒸留酒をなめるように飲んでいると、肩を叩かれた。
「よっ」
振り向くと見知った顔のエルヴァーン。LSのサブリーダー、キルスヴェヌド・キャラヴェンだ。
「キースか、宵っぱりですね」
苦笑してみせると、むこうは快活な笑みを返してくる。
「人の事言えるかい。ここいいか?」
「どうぞ。今日は一人ですか?」
整った顔立ちの――これはエルヴァーン全体にいえることだが――この男の側には、女性の姿が絶えることがあまりない。今日も誰かと飲んでいたのだろうかと問えば、キースは笑った。
「そうそう女の子と一緒にいるわけじゃないぞ」
「その割にはしょっちゅう違う女性と飲んでるの見かけますがね……」
「薄利多売の愛なんだよ、俺のは」
「なんですそれ」
くつくつと笑う。
キースがワインをボトルで頼み、自然談笑しながら二人でそれを飲むことになった。元々酒飲みが多いLSで、更に酒に強い二人なので、ボトルはすぐに空になる。
二本目を頼んだ所で、キースはふと真面目な顔になる。
「ところでトーリ、お前最近眠れてるのか?」
「はい?」
思わぬ言葉に何となくぎくりとして、キースを見返す。彼は自分の目の下をつついてみせた。
「クマ。お前元々そんな顔色よくないけど、クマできてるのはあんまり見ないからなぁ」
――夢を見る。
「……そうですか?」
その夢の情景がフラッシュバックして、トーリは目をさまよわせた。夢を見る。あんな、夢を。
「まぁ、言いたかないならそれでいいけど、ちょっとでも話したいなら聞くぜ。話して楽になることもあるしな」
いつも通りの気さくさを見せるキースに甘えてもいいのか、しばし迷う。テーブルに届けられた二本目のワインをグラスにつぐと、トーリは勢いよくそれを空けてから口を開いた。
「夢を」
「うん」
「――最近、夢を、見るんです」
テーブルに肘をついて、顔を覆う。
目をつむると、脳裏にその情景が蘇る。
あんな、夢を。
「ひどく甘い……夢で。俺はそんなこと望んでないのに。そんなこと考えたこともなかったのに」
それでも、一人で眠ると夢を見る。
「だから最近、眠りが浅いんですよ」
手を外して自虐的に笑ってみせると、キースは考え込む様子をみせた。
「最近ってことは、原因ははっきりしてんのか?」
――ケルちゃん!
妹の嬉しげな声。知らない女の顔。楽しげに揺れるかぎ尻尾。
目を閉じてそれらを振り払う。
「そうですね……原因はなんとなく、わかってます」
「女か」
図星をつかれた。茶化すわけでもない真面目な声に、思わずトーリの頬が赤くなる。
「わかりますか」
「……あれ、当たった? 当てずっぽうだったんだがな」
きょとんとした顔でそんな事を言われてしまった。ますます顔を真っ赤にして、トーリはその場につっぷした。
「キース……」
「ま、当てずっぽうというか、なんとなくそうかなとは思ったんだよ。俺も伊達に人生経験積んできたわけじゃないからなー」
顔を上げる。にやりと笑っていたキースの顔が、再び真剣さを帯びた表情になる。
「女問題は難しいな、迂闊にアドバイスできねぇ」
「いや、女問題と言ってしまうと語弊が」
「女絡みと言い換えても何も解決しねぇぜ」
「まあそうなんですけど」
目を背けるトーリに、キースはふと優しく笑ってみせた。
「そうさな。昔語りをしてみせようか」
その言葉に思わず彼と視線を合わせ、トーリは戸惑った。キースが自分の過去の話をするというのには、未だかつて立ち会ったことがない。
「昔々、ぴかぴかに心清らかな少年がいました」
「心清らか……?」
「まあ聞けって。心清らかな少年は恋をしました。燃え上がるような恋で、少年は眠れぬ夜を幾夜も過ごしました」
言葉を切って、キースは一瞬遠い目をした。
「ただし、相手は兄の婚約者でした」
トーリはまじまじと彼の顔を見る。しごく真面目な表情だった。
「結婚式の日が近づくごとに幸せそうに、美しくなっていく彼女に反して、少年は日々憔悴していきました。
そして考えました。彼女に告白しよう。彼女をさらって地の果てまで逃げよう」
死が二人をわかつまで。例え不幸になったとしても、彼女さえいれば何もいらない。世界が終わってもいい。
そこまで思いつめていたのに。
「式の前日、少年は彼女を呼びだして告白するつもりでした。意を決して思いを告げる直前、彼女はそれはそれは幸せそうな笑顔で言いました」
キース! 私いま本当に幸せなの。貴方のお兄様と、貴方と家族になれるんですもの!
「……少年は結局何もしませんでした。
翌日、彼はただ笑って花嫁を見送ると家を出ました。そうして二度と、家族の前に姿を見せませんでした。
おしまい」
語り終えたキースに、トーリが尋ねる。
「それから帰っていないんですか」
「ああ。たまに兄から便りはあるがね。同じ屋根の下で生活していたら、いつか彼女を押し倒さない自信がない」
そして、そうなれば彼女の笑顔は永久に失われるだろう。
「……後悔はしていませんか」
好きだと言えなかったことを。
「してない、と言ったら嘘になるな」
キースはそこで苦笑いをしてみせた。
「思いを伝えたところで誰も幸せにならない。それでも、言っておけば良かったと思うよ。今でもずっとね。
さてそれでは、好きだとすら言えなかったオレから、悩めるトーリくんにアドバイスだ」
じっと目を見据えられて、トーリは居住まいを正した。
「自分の思いだけはちゃんと伝えとけ。
特に俺らは生業が生業だ。迷ってるうちに死んじまって終わりかもしれん。自分が明日を笑って迎えられる保証なんて、無いみたいなもんなんだからな」
「……はい」
「なんてな! しかし酒に酔って色恋の説教とは、オレも焼きが回ったかねぇ」
そこでキースがにやりといつもと同じように笑ったので、トーリも笑みを返した。

それからまたワインを一本空けて、その晩はそれでお開きとなった。
キースは白門の、トーリはアルザビのレンタルハウスにそれぞれ帰る。見送ったキースの足取りは確かなものだった。酔った勢いで昔語りをしたとはいえ、正気は保っていたらしい。そうだとすると純粋にトーリを案じてのことだろう。
だけどキース。無意識のうちに一人虚空につぶやく。
「言ってしまっていいものか、俺にはわからないんです……」
だって相手は妹分だ。守るべき生き物だ。
十数年、ずっと保たれていたその関係を、もし失うことになったら。
そこまで考えて、トーリはふと気がついた。

ああ、俺はミシィが好きなのか。

それはすとんと、心の中に降りてきた。
今更だったが、自覚して向き合ったのはこれが初めてかもしれない。今まで見ないように努めてきた感情を意識して、トーリは何故だか泣きたくなった。
そうか、これは恋だったのか。なんたるざまだトーリ・ココノエ。見ないふりをしていたものに気づかされて、いい年をした男が路上で泣きそうになっている。どうしてにじみ出てくるのかわからない涙を、こぼすのを恐れて歯を食いしばっている。
レンタルハウスでは件の妹分が眠りこけていることだろう。合い鍵を渡したのは自分だ。不本意ながら寝床を共にすることもあるが、だからといって二人の間に男女の関係があるわけでもない。妹分はただ眠りにくるだけだ。二人寝することも、なんとも思っていないのだろう。
そのことがやけに堪えた。どうとも思われていないであろうという推測が、トーリの心を締め付けた。
トーリはといえば、一人で寝ていると必ずといっていいほどあんな夢を見るのに。
あんな夢。
人に言うのもはばかられるような、夢。
一人寝をしているときに限ってその夢を見る。

妹と交わる夢を見る。

夢の中の妹分の痴態を振り払うように頭を振って、トーリは空を仰いだ。
ミシィが寝ているであろうレンタルハウスには今は戻りたくない。トーリはきびすを返して、酒場街へと消えていった。

結局トーリがレンタルハウスに戻ったのは、何軒も酒場をはしごして、日もとうに昇りきった頃だった。
さすがにベッドに妹分の姿はない。なんとなくほっとして、のろのろとそのアトルガン様式のベッドに近づく。
「……俺はどうしたらいいのかな、ミシィ」
ひざまずいて、乱れたシーツに額を押し当てる。
目を閉じると、微かにミシィの残り香がした。


"awakening" is over!
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